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まぬけな友達ありがとう、さようなら

  • 執筆者の写真: Kumi Umuyashiki
    Kumi Umuyashiki
  • 2021年10月4日
  • 読了時間: 7分

私には自分のメンターだと思っている人が数名いる。

身体がノーと言うとき」の著者であるガポール・マテもその一人。


もちろんガポール・マテと個人的にメールを交わしたことは数回限りで、

個人的に深い繋がりがあるわけではありません。


5年くらい前に、癌を患っていた生徒さんについてどうしても相談したいことがあり、こっちから一方的にメールをしたのだけれど、その時、親切な返事が何度か届いたのである。

それが、ガポール・マテと繋がるきっかけとなった。



去年までカナダから、彼の教えをオンラインで1年かけて学んできた。

("Compassionate Inquiry"というコースを受講していた)。


それは「自分への取り組み」として学んできたのだけれど、

人は「安全な人間関係」を通して癒しを起こしていくことができるのだと、

教えてもらいました。



安全な人間関係を築くために行わなければならないのは、

相手に安全を求めることではなくって、

やっぱり自分に取り組むことなのでした。


日常生活の中で、何かの引き金(トリガー)があって取り乱すとき、

引き金になってしまったものを追求するのではなく、

「自分の中の何が、その引き金によって、動き出してしまったのか」を、

やさしく自分に問う必要がある。



例えば、

誰かに何かを言われて取り乱した自分がいるなら、

その誰かが言った言葉を責めるのではなくて、

自分の中で起こった反応について、探求していくということである。


感情とストーリーを、分けてみるということをする。


誰かが言ったその言葉とは、取りようによって、異なった意味を持つ場合が大半なのだ。



例えば反対意見を言われた場合、

ある人はそれを、批判されたと取るかもしれないし、

別の人は、厳しいが妥当なアドバイスだと、取るかもしれない。


私たちは、自分と同一化してしまっているストーリーをたくさん背負って生きている。

いつも同じことで悩んだり、同じ人と揉めたり、同じ失敗を繰り返したり。

そんな同じストーリーが、自分の人生となっている。


だけど、そのストーリーたちは、一旦どこかに置いておいて、

感情だけを見てあげると、


そして「その感情をはじめて感じたのはいつだったかな」と、

身体の感覚に聞いてみると、


身体の記憶は私たちを、

ずいぶん昔の、自分が小さな無力だった時代まで、連れていってくれたりする。


あの時、小さな自分の感情を、

受け止めてくれる大人がいなかったのであれば、


子どもにとってその状態というのは、

自分は愛される価値がないことになってしまう。


私たちはその時のことを引きずりながら、

いつまでたっても、受け止めてもらえなかった思いや感情を、

どこか別の舞台で、別の人に、ぶつけてしまっていたりする。


「相手が批判している」と感じている場合、

それは往々にして、「自分が自分を批判している」のかもしれない。


自分は愛される価値がない、充分ではない存在だと、自分で信じている場合、

その感覚を思い出させるような出来事が起こると、

例え相手が自分を批判しているのではない場合であっても、

批判されたように取ってしまう。



だって、自分は充分じゃない、価値のない人間だから・・・。

・・・そう思っているのは、相手ではなく、自分自身。


幼い頃、親にきちんと感情を受け止めてもらえた場合、

(それは、健全な家庭であったとしても、稀なことだというけれど)、

自分は愛される価値があるという安全な強さが培われていく。


そうすると、他者の意見にも態度にも揺るぐことなく、

ああ、そういう意見もあるんだ、でも自分は違うけどね、と、

冷静にいることができるようになる。


私は自分が日常的に繰り返している反応を精査する作業を行うことで、

自分が子どもの頃に「聞いてもらえなかった」という不満を持っていたのだと、

気が付きました。


大人(親)は自分のことで精いっぱいであって、

自分の痛みに対処することに忙しく、

子どもを産んだのにも関わらず、

子どもを見ておらず、

子どもの声を聞いていないということだったのかもしれない。


もう一度書くけれど、それができている親というのは、稀な存在なのである。


だから、普通の家庭で育ったように見える誰もが、何等かの傷を負って生きている。


感情は、記憶(過去)と結びついている。

記憶(過去)は、未来への欲望にも繋がる。

私たちはそんなものたちに、「無意識」でいる限り、

人生のパターンを、支配されている。



感情ボディに触れ合った時、

その感情の原因が、紐解くように、そこ出現することがある。

(探そうとしても見つからないが、向こう側から出現してくる)。



それは、子どもの頃にできた「対処法」のようなものであり、

その頃から、馴染みのあるものであり、

そのお陰で自分はやってこれたように見えるものであるのだけれど、

実は、今となっては何の役にも立たず、

反対に、苦しみの原因となっているような、

盲目に信じていた、自分の中のストーリーのようなもの。


それはきっと、ガポール・マテが、「まぬけな友達」と呼んでいたものだ。


幼い頃は、そうしないとやって来れないように見えたから、

そういう対処法(戦略みたいに)を取ってきた。

だから、その対処法は友達みたいなものだった。


でもね、今はあんまり助けになっていない友達だから、「まぬけ」なんだな。


私の場合、自分のストーリーを人に聞いてもらうことに躍起になったり、

解決するべきものとして人に提示したりしながら、

一体本当は、何が得たかったのか。


よくよくストーリーを吟味してみると、

そのストーリーの内容は、くだらないものだった。


くだらないとうか、解決のしようがないように、できていた。

解決してしまったら、困るから。



だってそうしたら、私はいったい、何の話をしたら良いのか。

だって私は、話を聞いてもらう必要があるのだから。



私は、人に話を聞いてもらいたかったのだ。

話を聞いてもらえないってことは、自分に価値がないことだから。


それは、私がそう思い込んでいたこと。

まぬけな信念、「まぬけな友達」だった。

考えや信じていることとは、無意識にそうしていることが、多いのだということ。


何の役にも立たない信念であって、

幼い頃の悲しみや怒りのような感情と関わりがあり、

もう役に立たない信念なのにも関わらず、

私の行動を左右している。


それに気が付いたあと、ある特定の出来事で、

今まで感情を取り乱す引き金となっていたことが、

それまでのように、エネルギーを持たなくなった。



条件反射のように、体は反応をしても、

そっちの方向へ引きずられて、

役に立たなくなったストーリーと自己同一することが、なくなっていく。



でも、私たちには、

忘れてしまったように思われる記憶や、

役に立たない信念みたいなものが、

まだまだきっと沢山あるのだから、

この先も自分に取り組んでいくこと。


それがきっと、他者との安全な関係を築くためのベースであり、

最終的には、自分をもっと楽に、軽やかに、自由にしてくれるものだから。




【補足】


インナーチャイルドという言葉があるけれど、

私たちは日常の中で、

そういう「癒されていない幼い頃の自分」に戻ってしまうことがあります。


その幼い自分に戻った時というのは、

大人の自分であっても、脳内ケミカルのバランスが変化してしまいます。

脳内ケミカル(ホルモン・神経伝達物質)のバランスは、

自分で頑張って変えることができるようなものではなく、

育ってきた環境の中でそうなってしまった、というようなものだそうです。


だからそういう自分にまずはやさしく寛容でいてあげること。

変えようとせずに、気づくということが大切だと、学びました。


極端な例として、解離性同一障害(多重人格)の方の例を、

ガポール先生はあげてきています。

その方は喘息持ちであり、ガポール先生は喘息の薬を処方していました。

でも、その方は3つの人格を持っていて、

そのひとつが、「子ども」だったそうです。


大人のその方が子どもの人格になっていると、

大人の分量の喘息薬に、副作用を起こすことがわかりました。

大人なのに人格が変わると、生理学的に、子どもになってしまっているのです。


大人の私たちの脳内化学物質は変化します。

不安で、見捨てられた子どもの脳内ケミカルの状態になることもあります。

そういうことが、私たちの体では起こっているのす。

(Compassionate Inquiry のコースより一部引用しました)。




 
 
 

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